こんばんは。
歴史的には今日は赤穂浪士の討ち入りの日だったそうで、やや捜索熱が増し、歴史をネットで調べています。
私事で恐縮ですが、私の出身は千葉県市原市の養老渓谷の近くです。都心からアクセスの場合、内房線の五井駅から一時間に一本の小湊鉄道を使います。その経由駅の一つに里見駅というのがあり、昔、学校で「南総里見八犬伝」というのを習った時に、「南総」というのは、市原市の南部分を指すらしく、南総中学校とかもあったりしたし、「里見」はあの里見駅の里見かなと思ったりしたものでした。
調べてみると、この里見は房総半島南部を昔治めていた里見氏という勢力のことのようです。小湊鉄道沿いの駅に鶴舞駅というのがありますが、その近く、大多喜街道沿い、養老川のほとりに池和田城というのがその時代(1394~1428年頃)にあったそうですが、北条氏が攻めてきて、君津の秋元城、久留里城ほか、一帯の城と共に落城したのだそうです。
小さい頃、いたずら好きで近所の子たちと廃墟になった家の中に入り込み、昔の小銭をたくさん見つけてきて、両親に見つかり大目玉だったことを思い出しますが、かなり古いものだったので、もしかしたら、その時代のものもあったのではと思ったりします。その頃から考古学への興味も始まった気がします。
さて、私は高校は大多喜高校出身で、入学すると必ず大多喜城ツアーというものがあり、昔の武具や絵のようなものが展覧してある疑似城を見てまわった記憶があります。高校の敷地内には当時の門がそのまま残っていたりしました。日本一といわれる大井戸があり、今も水があるそうですが、これは記憶にありません。
北条氏が攻めてきたのなら、池和田城とかなり近い所にある大多喜城も落城したはずなのになぜ残っているかと疑問を持ちましたが、里見氏から没収して徳川の家臣本田忠勝が10万石で入城したのだそうです。乗っ取りはしたが壊しはしなかったということでしょうか。あの近所に10万石もなかという名物がありましたが、いまやっと意味がわかりました。
後に本田忠勝は御宿に漂流したメキシコ船に乗っていた一行300人を迎え入れて世話をしたそうです。実はあの城はスペイン系の人々に由縁があったのでした。